追憶の調布関東村(1)調布関東村最後の日々


05/11/25 by サカタ@カナダ

(1)調布関東村最後の日々(1990-1994)

わたくしサカタは 1994 年にカナダに来るまで、旧米軍家族居住区だった「調布基地関東村跡(東京都府中市)」という広大な住宅廃墟群の住み込み警備員を3年余やっていたのですが、こないだ久しぶりにその頃の夢を見て目を覚ましました。


タクラマ館
「関東村跡地 (1993)」
懐かしさに朝イチで「関東村」と検索してみると、えらいページに遭遇しひっくり返り。僕が警備をやめる前年に不法侵入を発見し捕まえ退出いただいた、まさにそのカメラマン氏のページがいきなりトップで出てきたのです。こちらがそのサイト、タクラマ館の該当ページ。文中「犬を連れて巡回していた警備員に見とがめられ」というのがこのワタシ。犬とは忠実なる警備犬ビコ号のことであります。いやはや、嘘のような本当のお話。

彼のページには、捕まった時点までに彼が撮影した美麗な写真の数々がありました。懐かしすぎる10数年前の我が職場、今はもうないこの村。写真の腕前も素晴らしい。あのとき捕まえず、もっといろんな施設を撮っておいてもらえばよかった。

さっそくタクラマ館主に連絡してこのすごい偶然を伝え、いくつかの写真の利用許可をいただきました。館主も、10年&太平洋を隔てたこの再会にびっくりだそうです。というわけで、下の写真をクリックすると2倍サイズのオリジナルを見ることができます。ありがとうございます、タクラマ館館主様。



センター道路 (Fuchu Avenue)
(C)TAKURAMA COMPANY

この南北1kmのセンター道路が貫くゴーストタウンを、隊員と警備犬ビコ号は日夜巡回し、侵入をもくろむタクラマ館主ら廃墟愛好者たち、廃墟の危険を知らぬ近所の子供ら、あるいは勝手に犬を放し「ドッグラン」として使うジジババ(別記事「恐怖のボクサー犬」参照)らと戦っていたのです。まあ夜は暗黒の恐ろしいところなので人が来ることは一度もありませんでしたが。月の夜などは東に広がる荒れ地と巨大な柳と月のコントラストがあまりにも物凄く、ビコ号と共にいつまでも呆然と空を眺めたりしていました。ケイトブッシュの「Wuthering Heights(嵐が丘)」が、頭の中でガンガンと鳴っていました。


屋上ガーデン
(C)TAKURAMA COMPANY

こうしたツタに侵食された建物が、当時でも100棟近く残されていました。この建物は僕が初めてこの場所に入ったときに、後述する「キノコの隊長」が案内してくれた棟かもしれません。『屋上ガーデン』と呼ばれた緑に侵食されたこのテラスで、僕らは2人弁当を食べたのです。「キノコ隊長、信じられないよ。本当に俺がこんなすごいところで働くなんてさ」と、僕は声を震わせて。

ボイラー工場 (Boiler Plant)
(C)TAKURAMA COMPANY
これは関東村に当時残された中で最大の施設、ボイラー工場。中は巨大なボイラーと配管だらけです。左手にこんもりと見えるブッシュ下に隠された貯水槽とこのボイラーが、関東村全域にお湯を給湯していたと思われます。この写真は調布の冬の空の色までも見事に写し撮っていて、この日この場所にいた僕はこの1枚に、激しく胸を動かされます。


消防署から
(C)TAKURAMA COMPANY

もう一つの大型施設消防署跡の2階から南東を望んだ図。武蔵野の冬の森。家々の間はすべてこうしたブッシュと雑木と落ち葉に埋め尽くされ、キジやウサギが生息していました。消防署跡は残念ながら、ハシゴ以外何も残らぬがらんどうのビルディングでした。

住宅内部
(C)TAKURAMA COMPANY
建物の内部はこの通り、惨憺たるありさま。立川基地(後述)はまだ使える古い建物が残っていたためその屋内に警備事務所が設置されていたのですが、関東村は全建造物がこのように窓もなく風雨に耐えられない状態だったので、プレファブ事務所設置となりました。電気と電話だけが通じ、水道は敷地内にないため、隊員が各自家からタンクで水を持ち込みました。冬はとてつもなく寒く、夏は恐ろしく暑いその事務所に、警備犬ビコと警備隊員2名は交替で寝泊まりしていたのです。冬はよく風邪をひいたなあ。


朝日町通り側フェンス
(C)TAKURAMA COMPANY

このフェンスを乗り越え、あるいはペンチで穴を開けて廃墟マニアたちが忍び込み、警備隊員は彼らを捕らえてはフェンスを修復していました。この写真も、この中で3年間暮らした僕にはたまらないアングルで捉えられています。道路を挟んで右側にパン屋があり、そこの鳥そぼろサンドイッチが僕の常食でした。

現在はこの関東村跡地に、東京外国語大学と警察大学が建てられているのだそうです(味の素スタジアムは、当時誰も入れない草ぼうぼうの荒れ地だった飛び地に建立)。建物の解体は、この93年から本格化していました。

こうした基地跡警備の仕事は、多摩では知られたアーシーな(=野外活動型)ブルースシンガーだったキノコの隊長という人物が、天の配材というものか80年代に草深い立川基地跡警備の仕事についたことから、当方にも縁が生まれました。旧基地関連施設で警備仕事の空きができるごとに、彼が貧窮する多摩のバンド野郎たちを警備会社に紹介してくれたのです(※)。1990 年に調布関東村に警備事務所が新設されることが決まった時点で声がかかり、僕は宝くじに当たったような幸運な思いでこの仕事を得たのでした。東京にいながら森の中で働けるなんて。なんてことだ。すごいぜ。

(※)我々下っ端警備員は、警備会社での研修と教育実習の後に現場配備されていた。

住み込み警備は24時間勤務で翌日パートナーと交替というローテでしたが、巡回パトロールとフェンスの修繕とレポート書きさえしっかりやれば自由になる時間も大量にあり(施設内に常駐すること自体が不測の事態に備えた仕事となる)、僕は事務所にギターやら本やらキャンプ調理器具やらを持ち込んで、仕事と野営が渾然一体となった生活を追求していました。

当時僕が打ち込んでいたのは英語学習とネットでのコミュニケーション(当時は当然インターネットはなく Nifty-Serve)で、さまざまな英語教材を警備事務所に持ち込み、犬以外誰もいないのをいいことに大声で発音練習を重ね、独学でけっこう英語が話せるようになりました。初めて現配偶者に会ったときに話ができたのも、現在カナダに住み翻訳をやっていられるのも、この基地に流れていた悠久のときの流れのおかげなのです。

資料によると、関東村は65年に作られ、73年に日本に返還されたとのこと。つまりこれらの建物はわずか10年も使われず、その後20年間は放置されていたことになります。が戦後の日本は米軍住宅群を作って住宅技術開発につなげたのだというし、サカタ隊員たち貧乏なバンド青年も廃墟警備仕事のおかげで食いつなぎ未来につなげられたわけで、まったくの無駄ではなかったのですね。

(続く)

追憶の調布関東村(1)調布関東村最後の日々
追憶の調布関東村(2)調布関東村のシクスティーズ
追憶の調布関東村(3)府中基地キノコの森
追憶の調布関東村(4)ゴールデンブラウンの立川基地
追憶の調布関東村(5)さよなら関東村
日記「立川基地の青春」(ランドリーゲイトの想い出)


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